上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

結果は欲しがるけど、自分の手は決して汚したくないんだ

  2016年7月26日、神奈川県相模原市で起きてしまった痛ましい障がい者施設殺傷事件。犯人曰く「障がい者は存在するだけで周りの人間に負担がかかる、不幸を生み出すだけの存在だから」。許されざる犯行なんですが、ネット上では意外にも犯人を擁護する声が上がったとのこと。(事件で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます)

 24時間テレビを真剣に観なくなって何年たったでしょうか?少なくとも、ブラック企業に就職してうつ病にさせられる前からだったのは確実です。中学生ぐらいまでは時間が許す限り真剣に観て、その頃は真剣に進路として考えていた福祉の道の志を新たにしていました。・・・もっとも、中学卒業の2年後には僕の頭でも入れそうな臨床検査技師の学校を血眼で探すことになるのですが。
 当時はほとんど疑問に思わなかった、むしろ「素晴らしい番組だ」と手放しで絶賛していたのですが、高校にもなるととある疑問が。それは「なんで走るん?」
 少なくとも「24時間マラソン」と「マラソン」との因果関係がどうしてもわかりませんでした。それでも高校のときは「頑張っている姿を見せることで感動を与える」という大義を見出しましたが、短大に入ると「行列のできる法律相談所」で、トークどころかVTRで「誰がランナーになるか?」というお笑いに変えてきた当たりから「ほぼ無意味」と思うようになりました。いや、「今年は俺が、○○があるからその覚悟を示す!みんな応援してくれ!」ならいいんですけど、もうなんか罰ゲームか何かのノリでしかないのかと。
 次にひっかかったのは「海外のチャリティ番組は24時間テレビと違ってノーギャラが当たり前。呼ばれたタレントが貯金箱を持ってくる24時間テレビと違って大スターが番組中に気前よく数万ドル単位で募金する」という点。もっとも、それはそれで「税金対策」だったり「売名行為」だったりするので一概には言えなかったり。もっとも、これも後述の結論に繋がっていくのですが。
 

 で、今感じているのは「24時間かけて放送するようことか?」です。
 例えば今年の企画の一つに「事故で片足を失った少女がアーチェリーに出会い、義足で競技をした。今回はイモトと一緒に槍ヶ岳登山に挑戦する!」。・・・それはそれで結構な事ですし、観れば「自分も頑張ろう、努力しよう」と思うのでしょうが、そもそも「障がい者」の「少女」が「登山」に挑戦でなければいけないのでしょうか?まずそのような企画は毎年放送されていますし、無理に24時間に収める必要もありません。逐一中継を見ている熱心な日テレファンなら、おそらく「イッテQ」て何回もイモトの山登りを観ているでしょうし、中継の時に少女の隣に不自然なフト眉の芸人が常に移っていれば感動は確実に5%割引き。何か、事故とか不測の事態も考えられますし、中継用のカメラを回し続けるのも大変・・・NHKなら2時間のドキュメンタリーに収めるでしょう。仮に「ライブだからこそ意義がある」にしても、イモトが隣にいる必要がこれっぽちもありません。そもそも「福祉」のくくりだったら、「身体障がい者」は全国に366.3万人(2015内閣府障がい者白書)みえますが、「精神、知的障がい者」も374.8万人(同)「引きこもり」だって83万人(2015年内閣府こども若者白書)みえます。「数年間引きこもっていた20代後半の男性が就職訓練を行う」「軽度の知的障害がある40代男性がTOEICに挑戦する」でもいいはずなのですが、そういった企画は「2時間ドキュメント」でなら観たことがありますが24時間テレビで観たことはありません。
 しかも深夜にはほぼ「福祉」関係なしのお笑い企画。冗談抜きでここに写っている芸人さんは突然「フクシを漢字で書いてください」と言われて果たして書けるのだろうか?それなら思い切って「バリバラ」とコラボしていただきたい。毎年一回、カッパのボディペイントをして背景と同一化しているあそどっくさんとか、絶対イジリ甲斐があるはずです。
 
 24時間テレビで一番ひっかかっている点はこういうことです。取りあえず「お祭り的」番組であり、「解りやすい感動」ありきである。そのため企画に挑戦するのはいかにも「危険そう・無理そう」な、しかも「若い」「女性」の身体障がい者の方ばかりクローズアップしますし、それを同時進行して終盤に「感動の連続」を作り出すという、20年以上前から未だに続けている見え透いた番組構成。もちろん、番組の「福祉」の啓発の意義は大いにあります。しかし、それは年1でお祭り番組にする必要は全くありません。例えば2週間に1回くらい、2時間の放送枠で「(旧)24テレビプロジェクト」とか銘打って様々な企画をレポートすればいいし、この期間の1週間くらいを「24時間テレビウイーク」にして少し多めにいろいろな時間の枠をとってライブにしてもいい。福祉が置かれている現状を見るに、必要なのは福祉を「慈善事業止まり」にするのではなく、ビジネスの一環としてマクロ経済の一部にしていかなければいけません。24時間テレビにそんな番組構成能力はなくあくまで「啓発」でしかありません。

 相模原の事件にしても、海外のチャリティ番組にしても、障がい者に触れないお笑い企画にしても、全てに共通するのは障がい者は可哀想」という絶対的なコモンセンスです。どうしても障がい者を「1段足りない存在」としてほとんどの人が見ていて、だからこそ「チャレンジ」が感動に直結してしまい、福祉は慈善事業止まりだし、お笑い番組障がい者はをイジることは禁忌に等しい。
 もちろんそういったコモンセンスはごく自然ですし、バリバラが全部が全部正しいとは思いません。しかし、バリバラがいままでのコモンセンスに一石を投じたのは間違いないし、障がい者は決して特別な存在ではないことを、もっとみんなが知る機会があった方がいいと思います。

 そう考えると、ゲームパッド障がい者も健常者も野球を分かち合えるゲームは素晴らしい。