上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

リメイクの願いが叶う頃 その後

 世の中には原作者と版元が揉めた創作物が多数存在します。

 

 任天堂信者的には「ヨッシーのクッキー」や「ティアリングサーガ」を挙げざるを得ないのですが、やはりこの手の話は漫画や小説では枚挙に暇がありません。

 特に近年では、原作者自身が情報を発信することが容易なため、様々なトラブルが明るみに出ています。「しろくまカフェ」や「くまみこ」、「鋼の錬金術師」等、アニメ化の際に原作者から疑義を呈された話は良く聞きますし、「あさりちゃん」や「セーラームーン」の様に、後年、原作者と版元のトラブルが発覚した事もありますし、この手の話で「キャンディキャンディ」や「うる星やつら」は必ず話題に上がります。

 

 さて、以前のブログで「元の方が良かった」と書いた、「思ってたんと違う!」状態だった「波乱と海原」が届いたので、早速プレイしました。

 「自身の所有物である」ことや「カードをスリーブに入れてプレイできる」ことで、面白さはそのままに、気兼ねなくべたべたとカードを触りながらテキサスショーダウンをプレイできるという、事情を知らない人からすれば、何を言っているのか解らないと思いますが、「レアなボードゲームでプレイする」ことの恐ろしさの片鱗を味わった方なら、何となく解かっていただける安心感を覚えました。

 「アートワークやフレーバーの大幅な変更」という、非常に賛否が別れる話題がありながらも、それを補って余りある恩恵を感じる「波乱と海原」ですが、パッケージ写真を見たり、商品説明文の「テキサスショーダウンのルールでもプレイできます」という文言を読んだだけでは、リメイクのにあたって、蛇足な行為に及んでしまったを追加してしまったように思えます。しかし、プレイしてみて、というか、その前にカードをスリーブに入れつつ説明書を読んだら、波乱と海原やテキサスショーダウンについて、僕が余りにも軽薄かつ浅慮な認識を持っていた事が解りました。

 

 波乱と海原には、テキサスショーダウンに相当する「基本ルール」の説明書の他に入っている「選択ルール」の説明書には、はじめに「背景」なる項目があり、曰く

・「波乱と海原」は、初めは、ゲームデザイナー「マーク・メジャー氏」の同人ゲームとして、「波乱」という名前で世に出た

・2015年に「Amigo Games」が商業ゲーム「テキサスショーダウン」として売り出したが、その際、意見の相違により、Amigoはマーク・メジャー氏が意図していないルールを作った

・本来のルールでは、各スートの最上位札(以下、説明書に倣って「フェイスカード」とします)をプレイしたら、そのスートのカードは「0枚」とみなされる。ただし、全てのスートが「0枚」になってしまった場合、スートを無視した数字比べになるという、劇的なゲーム展開を想定していた

・フェイスカードでトリックをとっても、リードプレイヤーは選べない

という内容でした。

 テキサスショーダウンの特色の一つのに、「フェイスカードでトリックを取ったら、リードプレイヤーを選べる」というものがあります。トリックテイキングゲームにおいてリードプレイヤーを選べるという事は、生殺与奪の権を得るのと同じ!

 まさにテキサスショーダウンの醍醐味とも言えるルールですが、その醍醐味を真っ向から否定したり、「Amigo Games」と表記した後に、意見の相違を経て「Amigo」という表記になったりと、日本語訳ながら、文の端々からひしひしと私怨を感じる「背景」です。

 

 2015年、自身の考案したゲームが商業ゲームをして売り出されるというのは、それだけでも名誉なことでしょう。しかし、「どのように売り出すのか?」という選択権は版元であるAmigo Gamesが決めることです。Amigo Gamesとしても、「より多く売れるにはどうすれば良いか?」を考えてテキサスショーダウンの形で売り出したのでしょうが、マーク・メジャー氏にとっては、まさにフェイスカードでトリックを取られた時の如く生殺与奪の権を握られたも同然。しかも、そんな自身の意図しないテキサスショーダウンが未だに高値で取引される人気ゲームになってしまうとは、実に納得いかなかったでしょう。

 自分の意図しない行為や成果で評価を受け、本当の意図は忘れられる。

 それだけでも遣る瀬無い事ですが、版権が移って自身の意図を表明する絶好のチャンスが訪れても、それでも自が意図しない「成果」や「評価」を受け入れる。

 俗人ならば、本来のルールを「基本ルール」にして、テキサスショーダウンのルールを「選択ルール」にするぐらいの措置をしてしまうでしょうし、説明さえすれば、「それならば止む無し」と多くの人が思うほどの「背景」です、しかし「プレイヤーが何を求めているのか」を第一に考えて、「基本ルール」を変えなかった。

 誰にでもできる事ではありません。

 

 恥ずかしながら、僕自身、「自身のやりたいこと」が理解されない、評価されない、しかも、僕の忌み嫌っていた「成果」が評価される事に、極めて長い間悩んでいます。

 そんな僕が「背景」を読んで、マーク・メジャー氏が感じたであろう遣る瀬無さ、納得のいかなさ、それでも尚、「多くの人は何を求めているのか」を考えて「波乱と海原」を世に出したかを考えた次第です。テキサスショーダウンは好きですが、波乱と海原を見て、「余計な事をするな!」と到底書けなくなりました。

  

 しかし、それでも僕自身に言い聞かせ、そして、自身の意図が認められない人達に伝えたい。

 必ずチャンスは巡って来るから、道を誤ってはいけないと。そのチャンスが巡って来た時には、謙虚に「今では何が評価されていたのか」を考えようと。

 

 そして

 

 恨みはその時に嫌味という形で存分に晴らしましょうと(爆)