上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

なぜヱヴァンゲリヲン新劇場版の序と破の前半は明るめなのか?そしてマリの役割

 ※現在公開されているヱヴァンゲリヲン新劇場版:序、破、QのDVD/BD版について言及します。
 
 ヱヴァンゲリヲン新劇場版を評する時に、よく聞かれるのが序、破とQのストーリの雰囲気の違いです。序と破はTVシリーズと比べても必要以上に明るめに描かれていて、Qの重苦しい雰囲気に「このギャップこそがエヴァ!!」とまで言われました。またヱヴァンゲリヲン新劇場版の制作が決定した時の広告には序、破の後は急と?(シン・エヴァンゲリオン劇場版:||に相当か?)を45分づつ公開するという予定だったのが、破の予想を超えるヒットとQ公開までに「魔法少女まどか☆マギガ」のヒットや東日本震災により「庵野の監督の心境に変化があったのでは?」と言われるようになりました。でも、この雰囲気の違いは果たして「変化」の結果だったのでしょうか?
 そもそもヱヴァンゲリヲン新劇場版は再構築(リビルド)をテーマに、映画に最適化されたアニメが作られています。あくまで「物語の再構築」なので、「物語世界の設定」はTVシリーズ決定的に違うものではないはずです
 よく言われるのは「ループ説」と言われるもので、「物語世界の設定」自体は変わっていないけれど、キャラクターたちはまるでTVシリーズの教訓を踏まえた行動をしているのがその根拠と言われています。
 葛城ミサト:TVシリーズでは、シンジの前では「物分りのいいお姉さん」を振舞おうとしますが、仕事や加持リョウジと関係が深くなり「妙齢の働く女性(しかも結構ハードな感じ)」を隠し切れずにシンジを孤独にさせる原因になっていましたが。新劇場版では後者をあまり隠そうとしていません。本人にとっては心理的な負荷は少ないと思われます。
 赤木リツコ:TVシリーズの破綻要因だった「ゲンドウとの愛人関係」は見られず、レイにも普通に接しています。ヴィレでもミサトの副官として「サポートに一生懸命」が伝わってきます。
まあ、TVシリーズで決定的に人間関係が破綻して悲惨な最期だった二人は大分違いますが、ほかのキャラクターも結構性格が明るめです。特にアスカのツンデレ化はアスカファンにとってはよかったのでは?
 実は言動があまりTVシリーズと変わらない登場人物が3人います。それは碇親子です。
 碇シンジ:一見、破で漢を見せた感がありますが、あくまで零号機が使徒に食べられてしまった結果。周りの言動の変化がシンジを変えたように見えるだけです。Qでのヴィレ脱走や落胆ぶりが「本質の変わらなさ」を象徴しています。
 碇ゲンドウ:一見、破でマトモな人間になった感がありましたが、Qでは「全人類、ひいてはこの世の全て」を犠牲にして初号機の中に取り込まれたユイに会おうとしていた事が判ります。TVシリーズとの行動原理はあまり変わっていません
 碇ユイやっぱり初号機でした。尚、初号機のコアに「ダイレクトエントリー」したためと説明されましたが、なぜゲンドウは反対しなかったのでしょうか?序、破のゲンドウと冬月の会話なども鑑みるとこの夫婦、人類補完計画以上に表沙汰にできない計画を立てている可能性があります。
 前置きが長くなりましたが、序、破とQの雰囲気の差は何なのか?
 シンジ目線で見ると周りの人々の性格の改善もあり、TVシリーズよりも居心地はよくなったはずです。これは以前書いた「表面的な人間関係」がより円滑になったと言えます。実はこの時、シンジが持っているS-DATの25と26のトラックだけをずっと聞いています。ではいつ雰囲気が変わるのか?それは真希波・マリ・イラストリアスとの衝突です。オープニング以来一切出ていなかったマリがパラシュートで学校の屋上にやってきてシンジと衝突した瞬間、S-DATが吹っ飛びます。この時一瞬トラックが27になり、その後Qでカヲルに直してもらうまで動かなくなります。そう考えるとS-DATのトラック数の変化は、シンジの人間関係のメタファーと言えます。ちなみに前述のシンジが漢を見せるシーンも、シェルターで話すのが加持リョウジからマリに変わっています。しかもニアサードインパクトの際にマリは「都合のいい奴め」とつぶやいています。
 真希波・マリ・イラストリアスの名前の元ネタは、デウス・エクス・マキナではないか?と言われています。これは「機械仕掛けの神」という意味で、ドリフのコントでよく見られた「なぜか(物語中の世界の調合性を無視して)上から落ちてくる金ダライ」だと思えば分りやすいです。つまりマリはエヴァ世界におけるデウス・エクス・マキナであり、破の前半までの明るい雰囲気は「閉じた人間関係の中で調合性がとれていたいた世界」(トラック数が25、26)であり、破の後半以降は「シンジにサードインパクトを起こさせるような変化が強制的に起きた世界」(トラック数が27以降)と考えられるのではないでしょうか?
 また、庵野監督は「自分がアニメを観た人にどのように思われているか?」をよく知っている人です。Qの批判や「このギャッブこそエヴァ」と言われる事までおそらくは織り込み済みですし、いくら実社会が変化しても当初の計画をちゃぶ台返しするとは思えません。一見賛否両論に発展した雰囲気の違いは、序と破が「映画2作を使った壮大すぎる前フリ」であり、ある意味「Qからが本編である」と言えるのです。しかも当初の計画ではその「本編」すら大した尺で描くつもりではなかったことになります。ひょっとしたら庵野監督は当初の予定では「本編」の密度を濃くして次々と場面を変えることで、現在でいう炎上商法や視聴者による(インターネットも使った)活発な考察で、作品自体の価値を高める計画だったのかもしれません。それが「前フリ」である破の予想外のヒットや(それまではやっぱり低予算だったようで、当初の計画では第9の使徒戦までで終わる予定だったとか)、本来のお客が「魔法少女まどか☆マギガ」に食いついたことにより、嫌味を込めて95分間テンションが低いQを観せたと考えられます。庵野監督はリソースが豊富な環境より、ある程度逼迫した環境の方がいいものが作れる自覚があるのでしょう。
 ちなみに「真希波マリ」の名前は貞本エヴァの14巻の最後にも登場します。彼女の正体は別の機会で考察したいと思います。