上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

お墓を暴いてお腹スッキリ

 アイクぐらいのレベルになると、東京観光も何味か違います。

 つーのも完全プライベートで東京へ行ったのは4.5年前。3DSのピースあつめ旅のイラストに、羽田空港に行かないとダウンロードできないものがあったのでさあ行こうと。どうせ行くのだから東京観光もしようと。
 そこはアイク。羽田空港から行ける「ニンテンドーゲームフロント」とか行っちゃうんですよね~、そんでもって「平将門首塚」も行きました。岐阜の病院に戻れますようにって。え?原宿?そんなオサレスポット行きませんヨ。

 この前「幻解超常ファイル」の再放送でやっていたので思い出したのです。羽田空港に行ったのに「羽田の大鳥居」行くの忘れた~!!って。

 さて、「平将門首塚」とは?
 時は平安時代。東北地方の豪族だった平将門は圧倒的な武力で関東までを平定し、「新皇(新しい天皇)」を名乗り都(京都)へ攻め込もうとしたが、朝廷軍との激しい戦いの末ついに討ち取られる。将門は首をはねられ都でさらし首になるが、その首は夜になるとカッと目を開き「私は死んではいない!首と胴体をつなげてもう一戦しようではないか!」と叫び続けた。ある夜、首はついに故郷の東北(自らが都とした関東との説も)を目指し飛んで行ったが、ついに力尽きて関東に落ちた。その場所が「平将門首塚」である。
 しかし今でも将門の怨念は今でも消えることはなく、塚を冒涜した物を祟ると言います。たとえば、大正時代に関東大震災で大蔵省が倒壊し、新庁舎を建てようとして首塚を潰そうとした時に、当時の大蔵大臣が急逝し官僚も次々に亡くなったとか、新庁舎に落雷が落ちて丸焼けになったとか、GHQが塚を潰して駐車場にしようとしたら事故が多発して、マッカーサーが恐れをなして工事を中止したとか。今でも、周囲のオフィスでは首塚に背中を向けないように机を配置しているところがあったり、首が戻ろうとした話から、左遷される会社員などが「また東京に戻ってこれるように」、失踪した人の家族が「また帰ってくるように」とお願いをしたりしています。僕が行った時も「帰る」→「カエル」の置物や花がたくさん奉納(でいいのかな?)されていました。

 さて、まず明治から戦後にかけての祟りの話。確かに当時の大蔵大臣は病死していますが、新聞の報道は「安らかな大往生」。享年も59歳ですが、当時は還暦を迎えるのも難しい時代です。そもそも就任から3か月で建て替え計画にはほとんどタッチしていない人でした。官僚もほとんど亡くなっていませんし、落雷事故があったのは工事から17年もたった後。しかも肝心の雷が落ちたのは無関係の航空局でした。「祟りだ」と騒ぎだしたのも、大蔵省でけが人が出た時に誰とにもなく「平将門の祟りではないか」と言い出して鎮魂祭を行った時、メディアが面白半分で「将門の霊よ、静まり給え」と報じたから。戦後の話も、工事が計画された時に地元の人が「ここは古来の王の墓だから壊してはいけない」とGHQに直談判しGHQが結局折れたのが真相で、事故が多発した事実はなかったとのこと。
 平安時代から「神田明神」の主祭紳の一柱として祭られていた平将門は、「江戸を守る神様」として敬われ、親しまれていました。明治以降、皇室が東京にやってきた時「朝敵」である将門は主祭神から外されてしまい、前述の大正、昭和時代にも将門に関する史跡が取り壊しの危機に晒されてきましたが、そのたびに「東京を守ってくれている将門を守ろうとする」力が、「祟りだと騒ぐ」、「地元の人々が抗議する」といった形で表れてきたのだそうです。
 そういう意味では、将門のの力というよりは「東京を守ろうとする力」が祟りとして形をなしたのではないか。とも思うのです。

 ちなみにアイクが行った時に感じたのは、東京駅のすぐそばとは思えないほど静かで落ち着いていて、お墓さえなければお弁当と食べるのにはピッタリの場所だなぁと。何が言いたいかって怨霊漂う呪われた場所っつーよりかは、神社のようなどこか清浄さすら感じる所でした。
 やっぱ羽田の大鳥居行っとくべきだった。