上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

境界のRINNE面白いからみんな読もうな!

 鯖人が肉のお金払って吐血するシーンでお腹抱えて笑った。

 

 最近お仕事で本当に疲れるんですよ。別にブラックって訳ではないし残業代もちゃんと出るんですが、地域の準中核の中規模病院にありがちな早出や夕方診療当番が続いたり、そんで休みはボドゲカフェで夜中まで騒ぐと。そうすると自覚できるぐらい自律神経がやられてる事に気づいたんですよ。最近はFGOプレイ日記も文章が短くなってるし。

 確かに人と関わったり、盛り上がったり、そういうのは重要です。趣味を持つのはいいことです。

 結構長いことゲームとかボドゲとか水泳とか自転車とか、そういう趣味をグルグル回していたんですが、なんというか、どんなに美味しくても、身体に良くても、根本的に味の濃い食べ物ばかり食べていける訳ではないっつー話で、疲れた身体と心にちょうどいい趣味、つまり・・・

一人用ボードゲームです(爆)

 

 そんでもって、行きつけのボドゲカフェでプレイした「さかな、さざなみ、さようなら」の紹介&感想です。

 

 「冒険企画局」というメーカーのゲームで、同系統のゲームの「シェフィ」はコンシューマゲーム化されていてNintendoSwitchでもプレイできます。訳あって「さかな、さざなみ、さようなら」や「シェフィ」を入手していませんが、Switch版はダウンロードして遊んでいます。

 ゲームとしては「アーティチョークなんてだいきらい」系の、デッキ破壊系のゲームです。面白いのは「魚として回遊しているプレイヤーは、ある時自分が輪廻の輪を回っているだけなのではないか?という思いに至り、解脱の為にあらゆる欲望を捨て続ける」という、詩的なストーリーラインとゲーム性がうまくマッチしているのが印象的です。この辺り、あらゆる困難を超えて羊を繁栄させるという、ゲーム性と実は明確なストーリーラインがある「シェフィ」とは、いわば「コインの表と裏」のような関係と言えます。

 ルールとしてはドミニオン方式で手札を引いてカードの指示に従ってカードを「彼岸」に送る(解放する)。山札をリシャッフルする時に彼岸にあるカードを、2枚「超彼岸」に送る(超開放)。手札を全て解放すればクリア、リシャッフルの際に超彼岸にカードを送れなくなったらゲームオーバーという、聞いているだけで「終盤の連続リシャッフルで彼岸のカードが光の速さで尽きそう」と思ってしまうゲームです。

 で、手札というのが面白く、「煩悩カード」という明らかに解脱の障害になるカードだけでなく、カードを解放する効果がある「徳カード」や「合点カード」といった、一見解脱に必要なカードまで解放する必要があるのです。目指すべきは、まさに「無」。

 

 この「無」という概念。僕にとってはひたすら解せない概念だったのですが、まさか、疲れた心のままでプレイしたソロ専のゲームが理解のきっかけになるかもしれないとは、まさに瓢箪から駒ですな。

 というのも、「MOTHER2」での「ムの修行」が、言いたいことは何となく分かるけど表面上はグロいものだなくらいの感覚だったし、「ぶっちゃけ寺」とかで「如来」「菩薩」「明王」「天」の違いとかやっていたけれど「なら如来は『衆生を助けよう』という欲望すらも無いんじゃね?解脱するのはすごいけれど、単なる自己完結で救済は菩薩や明王に投げるとか酷くね?」と思っていたのですが、ゲームをプレイすることで、そういった疑問を補完する一助になっているのではないか?と思うようになったのです。きっと「冒険企画局」の人たちは仏教に関して深い知識を持っているに違いない多分

 

 そもそも仏教において、この世界は極楽浄土とそれ以外の「苦しみの世界」で構成されているとされています。苦しみの世界ってのは「六道」と言われ、前世の徳によって上位から

・天道

 美しく、なんでも願いが叶う一見幸せな世界。死ぬ寸前に身体中が腐りきって(天人五衰でググれ)下の階層に落ちる恐怖を感じながら「こんな世界に来るんじゃなかった」という後悔とともに死んでいく。「実は一番エグい世界なんじゃね?」とか「なまじ満たされて生きているから、解脱しようとする気もない」とか、仏教関係者からメタメタに言われている。

・人間道

 あなたがこのブログを読んでいる世界。「四苦八苦」でググれ。六道の中でほぼ唯一、解脱のきっかけが与えられているが、その根拠は、シッタールーダ氏が三十路になって「え、人間って病気になったり年食ったり死んだりするの?」って知って苦悩したり、なら修行して救われようとしたら「苦行とか意味無くね?」とか考えて解脱したんだから、お前らも頑張れ的なノリ。手塚治虫の「ブッダ」は本人も「スゲェ」と泣くほどの名作。

修羅道

 喧嘩ばっかりしている人達(阿修羅)の世界。常に「自分が一番」と思い込んで譲り合いの精神が無い。一応人間が住まう所なので、人間道ほどではないが解脱のチャンスがある。パヨクは是非この世界に憲法9条を広めたらよろしい。興福寺の阿修羅像が美形に作られすぎたために人気が出たが、本人は絶対に迷惑している。

 ちなみにここまでは「三善」と呼ばれる、特に悪いことをしていない人が行く世界であり、これ以降は「三悪」と呼ばれる、悪い人が行く世界となる。しかし、悪いことの程度はやっぱり曖昧。

畜生道

 要は「動物番長」な世界。知性が無いため本能のままに生きたり、常に自分が食べられたり傷つけられたりする恐怖を感じるので、心が休まる時が無い。「ミノタウロスの皿」な世界かもしれないし、マイクラの前身みたいな世界かもしれない。口寄せのじゅちゅ。

・餓鬼道

 常にお腹がすく世界。何か食べようとしても食べる瞬間に食べ物が燃えてしまうため、自分の身体を食べてしまうがすぐに生き返ってしまうので、延々と自分の身体を食べ続けないといけない。ちなみに「目連」というシッダールタ氏のお弟子が餓鬼道に落ちたお母さんを助けた喜びの踊りが盆踊りの起源という説があったり、亡くなった人が四十九日までに魚や肉といった生臭いものを食べると餓鬼道に落ちる率が跳ね上がるため、四十九日までは生臭いものをお供えしてはいけなかったり、その関係で仏教では魚や肉が禁忌となり、その禁を破るお坊さんが「生臭坊主」と呼ばれるようになるなど、意外と文化に関わっている。

地獄道

 言うに及ばず。常に苦しい、幸せのない世界。しかも8階層に分かれたり、その階層一つ一つに責め苦の特徴があったりサブの地獄がついていたりとバリエーションが豊富だが、4層目あたりから地獄の特徴が無くなり責め苦と期間がインフレしていくという考えるのが面倒くさくなったとしか思えない設定が散見される。責め苦を受ける罪人を裁く閻魔大王と罪人の支えとなる地蔵菩薩が同一の存在なのが、「天国に涙はいらない」で思いっきりネタにされた。

に分けられます。

 「苦しみの世界」というだけあってそれぞれにエグい要素が見られ、その設定すらも「解脱ができるのは人間道か修羅道だけ」という、「人間や人間が住まう世界は特別なのだ」という考えを取り除くことができなかったという、ある種の、人間の限界を見ることができる「苦しみの世界」と、解脱した後に行けるとされる極楽浄土。

 仏教の体系的な概念はシッダールタ氏の涅槃された後に作られたもので、シッダールタ氏は、自分が世界3大宗教の創始者になってしまうとは思いもしなかったでしょう。ましてや、六道などという概念を想定していたんだか。

 ただ、シッダールタ氏は「この世は苦しみに満ちている。その苦しみに向き合い、考え続けることで心の平穏を得ることが重要なのだ」という基本概念を、自分を頼って来た人達に合わせた例えや行動で示し続けたのです。以前にも書いた「チューラ・パンタカ」や、「死んだ息子を生き返させたかったら、死人を出していない家からケシの実を貰ってきなさい」でお馴染みの「キサーゴーダミー」は、ワリと有名ではないでしょうか。

 そういった「心の平穏」というのは、「苦しみの反対」ではないという事なのです。  

 モノがあればそれには必ず影ー光が当たらない場所というものができます。どんなに素晴らしいモノでも、役に立つものでもです。「苦しみ」というのは、一般的には「影」に当たる部分ではあるのですが、なら「なぜ影が生じてしまうか?」まで考えるとどうでしょう。それは「モノ」があるからです。

 モノが存在する以上、モノは影を作り出し、人間はその影に怯える。どんなにお金を持っていようと、どんなに優れた頭脳を持っていようと、どんなに美しく健康な身体であろうと、いつかそれは、人間に苦しみを与えてしまうのです。でも、人間として生きる以上、「何も持たずに生きる」ことは絶対に不可能です。だから、心を軽くしましょう。とシッダールタ氏は説き続けたのです。

 そうなると解脱というのは、人間の形而下では当てはめられない存在になるという事ではないでしょうか?煩悩を捨て、こだわりを捨て、善行を捨て、それこそ徳すらも捨てて。人間の形而下にあるありとあらゆるモノを捨てることこそが解脱であり、如来というのは、そういった自身の存在を示すことによって、衆生を菩薩や明王や天と一緒に解脱へと導く道標となっていると考えれば、色々と納得できる部分もあると言えます。

 

 「さかな、さざなみ、さようなら」のゲームデザインというのは、そういう仏教の考え方や、それこそ人間が平穏に生きる上で本当に大事なものを見出してくれるものになっています。このゲームにおいて最終的には「徳カード」対策での失敗が敗因になるのも、一見大切な「徳」というのは最終的には捨てなければいけないモノであり、しかも、下手に徳を積みすぎると天道に行ってしまうという、善行だの修行だの通り越して乱数調整みたいなモンだという、解脱の本質を見事に表しているでしょう。

 日々の生活に疲れた諸君、重量級のいい趣味を持っていても軽量級の趣味でリフレッシュしたいそこのアナタ、時にはボドゲカフェで一人「さかな、さざなみ、さようなら」で、心の平穏とは何か、自分なりの答えを考えてみませんか?

 

 ところで「超彼岸」ってなんなのでしょう?「超彼岸」というぐらいなのだから、なんか、こう、すごい彼岸なのでしょう。多分