上杉アイクの机上で空論

独特の感性で森羅万象を考えます

年上が、好きなのね

WARNING!!
この記事では「君の名は。」のネタバレが含まれています。
まだ観てない人は今すぐ戻れっ!!そして劇場にGO!!

 「君の名は。」を観て感動しきり、カルコスで関連書籍を買いあさりいつ2回目を観に行こうかとレイトショーの時間を確認していたところに「江川達也、『君の名は。』はプロから見たら全然面白くない」

 まあ、有名な作品にアンチが湧くのは至極当然。アイクもアンチと思われるブログや書き込み等をたくさん見ましたし、上記の記事も読みました。
 まーたこの人はは専門外なのに余計な事を上から目線でポンポンと・・・とは思いませんでした。
 アンチの書き込みも「至極真っ当」でむしろアイクも共感できるほどでした。
 というか、この映画につかれるイチャモンはまさに「おっしゃる通り」なのです。

 まずこの映画、単純にシノプスだけみる分には至極フツーのお話です。よくよく考えなくてもストーリー上のツッコミどころは数知れず。たとえば、
 三葉はともかく、瀧はどうして「3年前の世界」だと気付かなかった?とか、どちらも直筆で相手の名前をどっかに控えてなかったのか?とか、どこに住んでいるのか気にならなかったのかとか、流星の軌道が素人目にみてもおかしいとか、「お互いの名前を書こう」と言ったそばから「すきだ」って書くかフツー?とか、そもそも「三葉」や「瀧」なんて名前日本に何人いると思ってんだ?とか。
 
 それでもアイクは「君の名は。」は間違いなく名作だと思っています。
 でもそれは「理屈じゃなく魂が揺さぶられて%&$¥・・・」ではなく、あくまで名作たる理由を考えます。
 あるブログで「『入れ替わり編」『捜索編』『避難編』『記憶編』の4つのお話がブツ切りになっていて、テレビアニメのショートシリーズのようにそれぞれに起承転結がある」と書かれていましたが、これは映画メディアにありがちな「大きな物語を十分な尺で描く」とは真逆の手法です。2時間とかの流れで起承転結を描くため、スケールは大きいけれどどうしても観ていて「ダレる」瞬間がありますが、「君の名は。」はまるで観ている人がダレないように気を使っているかのように、小さな波が連続で押し寄せてきます。この構成は単に劇場で見ているだけでなく、ひょっとしたらソフト化されたときにも観やすいようにしたかもしれません。
 また細かい演出も「どこかで観たことがある」ようなものが多い。これは初見でもある種の安心感を与えます。OPムービーがあるのもポイントで、上記の「ブツ切り」の始まりに流れても違和感がありません。やはりソフト化したときの事を考えているのでしょう。完全にオリジナルのストーリーなのにまるでドラえもん映画を観ているような、「お馴染み感」があります。展開も全体で見れば意外性がありますが、ジェットコースターのように目まぐるしいものではなく、小さな波が暫増減して自然に展開を受け入れられます。
 これはネット上でもよく見られるのですが、映像や音楽の質が高い。勿論ストーリーがおざなりというわけではないのですが、事前の予告で期待感が伝わるような映像美と、同じアーティストで統一された挿入歌やBGMが映画をこれでもかというほど盛り上げます。とかく映画では「画」や「音」は記憶に残りやすいので、本で言うところの「読後感」がとにかく素晴らしいのです。
 キャラクター面も、特に三葉に顕著なのですが、昨今のアニメによくあるキャラクターの「設定倒れ」がほとんどありません。「JK」、「巫女」、「おっぱい」、「田舎娘」といったよもすれば「盛りすぎ」と思える設定が、ほとんど映画の中でクリティカルに生かされるシーンがあります。また、「裏設定」を示唆するシーンもほとんどなく、スッキリまとめられています。
 マーケティングの面も映画の資本からみれば完璧というもの。岐阜県がロケハン誘致を推し進める中、「ド田舎の玄関口」の風景として古川がドンピシャだったのです。おかげで岐阜「県」のお墨付きを得ることになり、中部圏では勝手に映画の名前が広がっています。いや、ホントに。「製作費の削減」とも評されるロケハンのいい面を極限まで引き出したと言っても過言ではありません。主要な場面のロケハンは長野県な上に岐阜県の場面は10分もないけど。美濃地方ハブられてるけど。飛騨にあるはずの糸守町の人たちが完全にエセ岐阜弁だけど。

 こうしてみると「君の名は。」は、敢えてアンチみたく意地悪な言い方をすれば非常に「そつの無い」映画と言えます。そういう意味では「水平思考」とでも言うべきか、単に「売れる要素のツギハギ」になっていないところは賞賛すべきです。
 一つ一つをみれば「フツー」でもそれをうまく落とし込むと「名作」になり得ることを、証明した映画なのです。