レイの「魂の場所」とは その2
前回のおさらい
レイはシンジの近親者であり、レイは「誰か」と婚姻関係にある
はぁ?お前何寝言言ってるの?
TDN犯罪じゃねーか!!
もう1か月入院しとけ!!
レイの旦那は僕です
そういった罵詈雑言が聞こえる中、次に考察するシーンは「綾波シリーズ」です。
「Q」にてシンジと冬月が会話するシーン。シンジの母、碇ユイ(旧姓:綾波)が「初号機のコアへのダイレクトエントリー実験」によって「初号機の制御システム」となり「ユイの情報だけ」が残った。というお話の後の、「それを元に作られたのが綾波シリーズ」という言葉と共に首だけのアヤナミレイが多数ライトアップされる重要かつかなりショッキングなシーンですが、カヲルの「魂の場所が違う」という言葉を念頭に置くと、どう考えても不可解な点がありませんか?
「場所」という言葉だけを聞くと、例えば「心臓か頭かの違い」とかのように「身体のどこに魂があるかの違いである」と思いませんか?ところが「首だけのアヤナミレイ」は文字通り「あたましかありません」。また、「Q」の作中に登場するアヤナミレイ(仮)は、アスカから明確に「アヤナミシリーズの初期ロット」と明言されています。「ロット」という言葉を使うということは、少なくとも「同じ仕組みである」と言うこと、即ち、「魂の場所」も首だけアヤナミと同じである必要があります。
ん?ちょっと解りにくい?
製品で言う「ロット」と言うのは量産商品が「いつ」「どこで」作られたかを示す製造番号の一種です。つまり、「ロット」で区別するということは、比較する商品が「同じ」時に限られます。いくら互換性があるからといって「Wii」と「WiiU」の2つは「ロットの違い」で区別できないのです。え?ますます解りにくい?まあいいや。
さて、首だけのアヤナミレイと全身があるアヤナミレイ(仮)、リリンの「模造品」であるということは、人間と可能な限り作りを同じにするのが理想です。
そんなもん脳に当たる部分にコアみたいな機構があったり全身がコアだったりするかもしれねーじゃねーか!!
というツッコミが聞こえるので反論を兼ねて考察を進めます。
作中何回かレイの裸が見えるシーンがありますが、コアらしき赤い球体は見当たりません。なら脳にコアがあるのでしょうか?
作中でコアがある存在として「使徒」と「エヴァ」がありますが、どちらも素の状態ではコアが露出しています。「コアは使徒の弱点である」と明言されているので、「自然淘汰による進化の結果」だとしても「誰かが意図的にデザインした」にしてもコアが露出した形状というのは明らかにおかしい。
ゼーレやゲンドウ達の会話から「使徒を倒す事が儀式の一環」であることは自明です。だとしたら「敢えて倒し易くしている」とも考えられますが、そうなると決定的な矛盾が1つ。明らかにオーバーキルなのです。ゼーレはエヴァや要塞都市の損害に対してゲンドウに文句を言っているシーンがあり、ゼーレやゲンドウが使徒の形状に関与している可能性もほとんどありません。即ち、「コアは露出した状態でないといけない」のです。
また、綾波シリーズの全身がコアだった場合でも、零号機の事故でガチで死にかけるというのがおかしいのです。「Q」にて複数の「全身がコア」の存在が出てきますが、弐号機のガドリング砲でも「無駄弾」と言われるほどダメージを無効化するほどの耐久力を誇っています。「シン・エヴァンゲリオン劇場版AVANT1」にてマリが「EVA44A」という使徒やエヴァに近い敵をガドリング砲で多数倒している事を考えると、「Q」でのアスカの攻撃も、想定されている敵に対して十二分にダメージを与えられるモノであると考えるのが自然なのです。それなのにレイは使徒やエヴァの攻撃でもないのに生命に関わる怪我をしているということは、綾波シリーズに「コアやそれに類する特殊な機構が存在しない」と考えるのが自然なのです。
ここまでの考察のまとめとして以下が今回の結論です。
綾波シリーズは人間と全く変わらない構造であり、「魂がある特別な場所」は存在しない
綾波シリーズで「首だけのレイ」を考えるともう1つ不自然な点が浮かび上がります。もし「ネーメジスシリーズ」に使うなど特別な用途があった場合、それでいて「首だけ」でも成立するのであれば、極端な話「脳だけ」作ればいいと思いませんでしたか?しかも「Q」の世界では物資が明らかに乏しいので、大量生産するのであれば極力無駄な部分は必要ないはずです。
「さすがに脳だけだとグロすぎだし、レイの頭の方がよりショッキングだし・・・」と考えられることもできますが、作り手があの庵野とその愉快な仲間達であることを忘れてはいけません。特に「Air/まごころを、君に」以降、ありとあらゆる場面で自分たちの脳内表現を、視聴者を無視して平然とスクリーンに映し出してドン引きさせる事が仕事と思い込んでいる庵野とその愉快な仲間達に、「グロ過ぎ」なんて今更覚えたような配慮をするはずがありません。必要だと思う描写であればどんな画でも描写する、すなわち・・・